れいわ新選組大西氏の命の選別発言

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れいわ新選組の公認候補であった大西つねき氏という人物が、新型コロナウィルス感染症治療などにおいて高齢者よりも若者を優先する必要もあるのではないか、という趣旨の発言をして、代表の山本太郎氏が「除籍もあり得る」と怒り、大西氏を批判、世間に謝罪…という出来事です。

まあ、言い方の問題もあるよな、もっと注意深く言葉を選んで議論すればいいのに、とは思いましたが、これは「あり得ない!命は絶対に皆平等!」と全否定して終わるような問題なのだろうか、と私は敢えて言いたいです。

なんというか、わかりにくさを気にせずに表現すれば、山本氏の反応や、これを「あり得ない!」と切り捨てる姿勢は、「ポリコレへの限りない忖度」という現代日本のひとつの病理を感じるんですよね。
新型コロナウィルス関係なしにしても、「90代患者に非常に高額な医療を施したが、数か月後に全く関係のない要因で自然死し、医療のあり方に疑問を持った」という医療関係者の記事を以前どこかで読んだことがあります。
そりゃあ疑問を持つでしょう。

大掛かりな手術などの治療を行うかどうか、年齢をひとつのファクターにするというのは北欧や西欧の国々の中には制度化されているところも普通にあるようです。決して、政情不安定な貧しい破たん国家におけるめちゃくちゃな制度というわけではなく、医療や福祉では世界で最も評価されている部類といえるだろう、北欧や西欧でです。
この点だけ考慮しても、日本でもまず議論・検討してみる価値はあるでしょう。即導入せよというのではなく、冷静に議論し、検討する価値は、少なくともあると思います。
「そんな意見は人間じゃない!」ぐらいの勢いで全否定されてしまうと、もはや多くの人は意見も言えなくなるでしょう。所謂、沈黙のらせんに陥ってしまいます。

「命は平等で、差を付けてはいけない」。この一文に反対する人は稀でしょう。正しさとして広く合意されているといえます。
しかしこういう事例をみるに、一度「正しさ」として社会的に合意されると、「その方向性は正しいが、現実との兼ね合いでこの辺にしておくべきでは」という、「ほどほどを判断する力」が日本はすごく苦手としている気がしてなりません。
正さの方向を向いていると、犠牲を払ってでも無限にそちらへ進まなければならないという考え方があるように思えます。これは何も私の持論ではなく、某大御所が太平洋戦争時の日本を分析するのに用いたロジックですが、21世紀日本のメンタリティにも通じている気がしてならないんですよね。

「何が正しいか」「正しいなら何としてもやらねば」という発想は基本的には間違っちゃいませんが、「限りあるリソースをどこにどれだけ振り向けるのか」という発想を持たないと、全体が、あるいは特定の部分が潰れていくことになりかねません。