「置かれた場所で咲きなさい」という言葉が好きじゃない

唐突ですが。
良い言葉として一般に支持されている(であろう)「置かれた場所で咲きなさい」という言葉が個人的に好きではありません。

ことわっておくと、状況によっては良い言葉だと思います。例えば前近代に生まれていたら話は違ってきますし、自分では絶対にどうにもならない苦境にいる場合なんかも、この言葉は響いてくるだろうと思います。人生ままならないことだってたくさんあります。現代日本という恵まれた社会の中間層(自認)で比較的平和に生きてこられたとはいえ、明日、事故に遭ったり重い病にかからないとも限らないわけで。

しかし、人生を自ら切り開く自由がある状況においては、私は自分の身を置き咲く場を全力で選びたいし、そのためにできる努力をし尽くしたい。

何故、突然こんなことを書き始めたのかといいますと、最近ごく身近な人が、人生において重要な事柄にもかかわらずえらく妥協しようとするので、「そんなに妥協していいのか?もっとやりようがあるのでは」とやんわりと言ったみたところ、「我慢することも大事ではないか」というのです。
例えていうと、

 

資格2級アリ:年収500万で通勤30分の仕事A

資格3級のみ:年収350万で通勤1時間の仕事B

 

という状況で、夜や土日にかなり努力すれば2級を取得できる可能性も十分ある、というような。(仮の話なのでBからAへの転職は不可能とする)
その人物は「何もかも理想を求めることはできないのだから何か我慢することも必要ではないか。私は仕事Bでいいのだ」というわけです。

違和感を覚えると共に、なるほどとも思いました。
決めつけはよくないですし、言葉にしない理由が何かあったかもしれませんが・・・、恐らくは。
努力するのがしんどいので気が進まない。全力で努力してダメだったという思いをしたくない。そんな心情のエクスキューズに「我慢する美徳」だとか、「置かれた場所で咲きなさい」が機能しているように思えたのです。
その後何年も通勤時間が倍になるしんどさを思えば、資格試験の勉強に全力で努力した方が合理的では?と思うのですが、なんだか、そうではないようなんですね。

もし自分だったら、たとえ30分であっても、余計にかかってしまう通勤時間の間中、あるいはもっと金があればなあと思う時にいちいち、「もっとやりようがあったのでは」と苛立ってしまいそうです。努力してダメだったら「やれるだけやったのだからこれで満足しよう」と思えますが。

つまり、どうしようもない場合に「置かれた場所」ならばそれに満足してそこで花咲かせようとするのはすばらしいでしょうが、そうでない場合に言い訳として使われ得るこの言葉が好きじゃないんですよね。
別に「自分は努力家だ」などと自慢したいのではなく、言い換えれば、後々余計にしんどい目に合わないよう、あるいは快適に生きられるよう、可能な限り戦略的に行動しているというつもりです。

また、こういう風に生きている方が、「自分はこんなもんじゃないはずだ」というマイケル・ジャクソンになれなかった症候群(仮)に苦しまずに済むかと。

若い人には通じないかもしれませんが、昔、母が熱心なファンだった「渡る世間は鬼ばかり」というドラマも好きじゃありませんでした。大人になってから、このドラマをなぜだかどうにも好きになれなかった理由が、これだったんだなと思い当たったものです。ドラマ全体的に流れる「置かれた場所で理不尽に耐え忍びながらがんばる」がデフォの人生観(おしんのように人生を切り開くのでもなく)。いや、こういった昭和のお嫁さんたちは大変だったでしょうから、置かれた場所で咲こうとすることは立派だったと思いますが。