新興宗教やカルト最大の魅力はその教義ではない

…というのが私の持論。統一教会が世をの話題をさらっていますね。

なぜこんな教義を人は盲目的に全財産を差し出し人生を捧げるほど信じるのか!?と不思議に思う人も多いようです。

一時期興味を持ってそれらのメンバーだった人の回顧録やルポなど、何冊か読んだことがあります。また、実は親類にもそうした人がいるんですよね。

それらを通してしみじみ感じるのは、少なくともその本や親類のケースでは、幹部や指導者ではない一般メンバーにとっては、世間がイメージを持ちがちな、「教義に感銘を受けて信じている」というのは結構二の次三の次なのだなということです。

じゃあ何なのか?

安心できる居心地のよい集団。

これが最大だと私は考えています。サンプル数の乏しい私調べではありますが。

人間集団なんてどこであってもドロドロして難しい人間関係が発生しそうですが、新興宗教やカルトでは正しさが固定化されていて、敬虔な信徒である限り受け入れられ、否定されず、仲間として暖かく迎え入れてもらえる独特の人間集団が形成されているようなのです。

こんな場所って実は他に得難いでしょう。

 

常勤で大学に勤務し始めてゼミやらクラスやらを担当して、人間の集団というものを近いながらも第三者的に観察するというそれまでになかった経験をし、そこで気づいて驚いたことがありました。

ゼミやクラスの中ではいつもと言っていいほど、その集団の中で劣った存在、弱い存在が周りに嫌われ、冷たく扱われるのです。

イジメというほどのものではなく、何かされるとか無視されるとかでは(ほぼ)ありません。ただ、とてもやさしく真面目で気遣いのできる学生でも、劣っている、弱い、というだけで何となく嫌われ、冷たくされることが多い。

「えっ、お前はそんなことに30代半ばまで気づかなかったのか!」

と言われそうですが、気づきませんでした。集団の内側からだと気づきにくかったです。

嫌われるというのは何かよっぽど嫌なことをされたとか、妬みとか、関係がこじれたとか、そういった要因があってしかるべきもので、良い人で自分に何の不都合も害もないのに「劣っているから何となく嫌う」という感覚が私にとっては晴天の霹靂でした。善人ぶるわけではありませんが、私が嫌うのはイヤな奴、卑怯な奴なので。(もちろん劣っている、弱い存在「だけ」が嫌われるという意味ではありません)

何が劣っているのかというと、その集団によりけりでしょう。

大学のゼミの場合は学力か、スクールカースト的な序列です。

 

最近、人に勧められて始めてためしに見てみたアメリカのリアリティショー(十数人の候補者が芸を競い、毎週誰かが脱落していき最後に優勝者が決まるという構成)というTV番組を見ても同じ現象を目の当たりにして大変興味深かったです。

この場合はやはり「芸」や「ルックス」が基準となります。

リアリティショーって全く興味がなかったのですが、文化人類学とか社会学の観察のようでとても面白い。もしかしたら番組の演出であって全てがリアルではないかもしれませんが、少なくともそこには多くの人々にリアリティがあると認識される有様が演出されているはずで、そこはたいして問題ではありません。

 

何が言いたいかというと、人間社会とはかくも厳しいものなのかということです。

まっとうにしていても相対的に劣っていたり弱いだけで嫌われる。それに比べ、固定化されて明白な(多くの場合聖典的なものが存在し、正しさは明文化されていさえする)正しさを愚直に信じ実践していれば認められ、受け入れられる集団。なんて安心できる場なのでしょう。

依存するに足る魅力があるのは明らかです。

 

それにしてもなぜ劣っているとか弱いだけで嫌うんでしょうね。動物的な本能なのかもしれませんが。