動物倫理を考える(2)

msr2do.hatenablog.com

こちらの前の記事の続きです。

 

畜産動物を含め、動物を(なるべく)殺すべきではないという根拠を、動物倫理学の研究者久保田氏は「動物の苦痛や喜びがもつ倫理的な重み」であると主張します。

しかし、私は個人的にこれには違和感を覚えます。動物の感情などの内面を人間が人間的な尺度で測って、そこに命の重みをもとめるなど、率直に言っておこがましく感じるのです。

また、欧米人、更に言えば人間を神の似姿とするキリスト教のバックグラウンドを持つ人々は、知性の高い動物を食べることに強い抵抗感を覚えるようです。クジラ、イルカ問題もそれが大きな要因となっています。犬や馬もしかりです。

何度か欧米人からそうした話をしたことがありますが(こちらからはふらないのに、クジラの話を批判的にふってくる欧米人がたまにいます)、彼らにとって「知性の高い生き物を殺したり食べたりするなんてとんでもない、かわいそう」というロジックはあまりにも当然のことのようで、「え?だってそりゃそうでしょう、なんでそんなことが疑問なの?」という風に、当たり前すぎて理屈で説明できないという反応が(少ないサンプル数ですが)多かったです。しかし、我々の(日本の?あるいは東アジアの?)死生観・宗教観では、木も魚も虫も、人間も自然の一部なのだというような感覚が根本にありはしないでしょうか。

どちらが正しいというつもりはありませんし、記事中で久保田氏がいうように、「全部を完璧にできない(奪わざるを得ない命もある)のであれば全部やらない(あらゆる動物愛護も肉食を減らすこともしない)」のは極端だ、という意見には同意です。また、線引きの線をもっとどんどん下げていけば良いというものでもないと思います。

しかし、動物愛護の議論における最大の問題は、やはり線引きなのです。犬猫で線引きするのか、ほ乳類で線引きするのか、脊椎動物で線引きするのか、動物全般で線引きするのか、動植物で線引きするのか、万人に合意される線引きは恐らくないでしょう。そして、法的には「人間」と「その他の生き物」で圧倒的な線引きがなされています。感情豊かで可愛らしい犬に共感を覚え、その命を重んじたいと考えることは多くの人に合意されても、その後はどこまでグラデーションなのです。ゆえに、人間とその他の生き物で線引きするという人がいても、(動物愛護家の方々は同じ命に対して冷たいと批判しますが)そのグラデーションの一地点にいるだけという意味では、ほ乳類とその他の生き物で線引きする人と決定的な差はないようにも思うのです。

私がこの記事で言いたいことは、動物愛護への批判ではありません。どちらかというと私は動物好きです。ベジタリアンになることは考えていませんが、畜産動物や魚には、極力苦痛を与えない飼育・と殺を行って欲しい、と願います。

私は動物愛護家の人に、上記のことを考えてもらいたいと思うのです。なぜなら、動物愛護家と、それに釈然としない人々や、もろ手を挙げて賛成しない人々の、何となく感じているモヤモヤ感は、こういうところに一つ起因しているに違いないと考えられるからです。「同じ命なのだから、心ある人間ならば動物愛護運動に賛同してもらってしかるべき」と愛護家の皆さん(官見の限り)は訴えます。しかし、そこには理屈に基づく線引きがなされていない、なんとなく感情を見て取れたりかわいらしく感じるというあいまいな線引きになっているように思え、突き詰めて考えると理屈がたたない、釈然としないものがあるに違いありません。しかし、愛護活動をしている人々はどうも、その辺に極めて無自覚であるように思えます。

じゃあどこに線引きをするのが答えなのかというと、私はコンセンサスを作ることは不可能ではないかと思います。ウサギは入れるのにネズミは入れないのか、ネズミは入れるのに小魚は入れないのか、小魚は入れるのに花は入れないのか―際限がないし、繰り返しますが、グラデーションだからです。そこをぜひ、考えて啓もう活動を行わないと、一般の人々への更なる同意の獲得は難しいのではないでしょうか。