続・教育困難大学の教育に疲れる(追記あり)

教育困難大学の教育に疲れている話をもう少し続けてみます。

 

特に虚無感を覚えるのはゼミです。

教育困難大学ではよくあるパターンかと思いますが、ゼミは全員履修することになるものの、単位は必修ではありません。クラス担任、つまり全ての学生にケアテイカーをつける意味合いと思われます。

この、全員履修しているのに単位は必修ではない、というのが曲者なんですよね。

何とか少しでもゼミらしいことをしようと、専門の研究(もどき)をさせようとすると、学生たちはすぐに諦めてしまいます。どうせ2単位なので、ゼミがハードなら、別のラクチン科目でその分の単位を取ればいい、と考えるからです。

しかし、ゼミをラクチンでかつ多少なり意義のあるものにする術が私には未だわかりません。

ハードといっても、もちろん、大したことはしていません。ただ新書でもいいから本を読めとか(彼らが妥当と感じるレベルは、google検索ですぐに出てくるどこの誰が書いたともわからないブログやHPや、ウィキペディアで済ませること)、意味を理解してから発表しろとか(それっぽい記事を丸写ししてそれを朗読するという発表をする者が多数いる。意味がわかっているかどうかちょっと突っ込みを入れるとまるでわかっていないことが露呈する)、そんな程度のことなのです。

そういう発表をする学生に対し、優しく「ちゃんと本を読みましょう。見つからなければ一緒に図書館の蔵書検索で探してみようか」「意味を理解して、自分の言葉で書かないと意味がないよ。わからない部分は、他の資料もあたってみなさい」などと言ってもう一度やるよう促すと、発表の準備をやり直すどころか、翌週から来なくなります。

 講義をまともに聞かず期末試験で点が取れないのは、好きにすればいいです。

しかし、ゼミの発表や卒論(こちらも必修ではない)に、こんなものを認めることはやはりできません。

正直にいうと、こんな大学でゼミなどやっても全く意義を感じません。ゼミのない教養科目担当の方が、こういう大学ではいいかもしれないと思えてきます。

最近、学生が堂々と、「僕の発表テーマは資料がないみたいなんです。どうすればいいですか」と相談に来たのでよく聞いてみると、googleでテーマのワードを入れて検索してみたが、使えそうな記事が見当たらない、ということでした。

大学の図書館の蔵書検索では、複数の本がヒットしますが、図書館の本で調べるなどとは、思いもよらなかったようです。

 

(追記)

重要な点に触れていなかったので追記。

ゼミの発表にしても卒論にしても、「優れたもの」「レベルの高さ」など求めていません。それは学生たちに全く期待をかけていないという意味ではなく、努力や成長の度合いを評価すべきだと考えるからです。

しかし、私は「きちんとやる」ことは要求します。

約束(期日、ルールなど)を守ること、コピペや外注(友人、家族含む)をせずに自力でやることなどの最低限のことです。

しかし、「きちんとやらせる」ことがこんなに難しいとは。きちんとやらない学生が少数ならペナルティを課せますが、ざっくり過半数なので、それもできない。(過半数を単位不可にすれば大学から強く改善を要請されますし、ゼミに参加する者が激減し成り立たなくなる可能性も低くないでしょう)

だからこれほど虚無感を覚え、疲れるのでしょうね。

学生の発表や卒論のレベルが低いというだけでは、こんな風には思いません。

 

 

 

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