新たな日常って

コロナウィルス問題で日常は、社会は変わっていくのだという論調。ポジティブに語られていますが、ちょっと待てとも言いたい。
むしろ社会が良い方向に変わる、進歩していくきっかけになるのだ、というような、ポジティブな話を聞きたいと誰もが思っている時でしょうが、現場からの声としては「そう簡単じゃない」と訴えたいところです。
これをきっかけに学校や大学のオンライン化が進むだろう、とか(進みはするでしょうが)、オンラインでも授業はちゃんと成り立ち機能することがわかった、だとか。「わかった」と言っている人は、一体どの立場にいる人なのでしょうか。少なくとも学校現場にいる教員や、まじめに勉強したいと望んでいる生徒・学生ではないと思います。
端的に言いますと、「ちゃんと機能」なんてしていない授業は極めて多い筈だということです。
もっと長い時間をかけて環境を整備し、教員に準備時間を与え、手厚い研修を行い・・・とした上でならできることは格段に増えるでしょう。それでももちろんできないことは非常に多いでしょうが。しかし、この急ごしらえでは正直、まともな授業をできていないことは大学側も重々承知で、それでもとりあえず体裁だけ整えて何とか授業をやったことにし、学生に単位を出し、今学期を乗り切ることが大切だ、と考えている大学は見聞きする範囲だけでもとても多いですし、それがほとんどではないかと思います。
それなのに、文科省から来ている指示は「きちんと今まで通り省令に基づいた教育はもちろんやれよ」という内容。どう考えても同じ質の教育を全ての授業でやれるはずもないのに(一部オンラインでも問題ない科目があることは全く否定しません。ですが一部です)、「省(あるいは国)としては教育の質を落とすことを認めていません」という言い訳をきちんと事前に示しておくわけですね。
大学は、全国の他の大学が授業をやる中で足並みをそろえないわけにはいかないので、なんとか現場の教員に授業をやらせる。「〇〇の問題はどうするんですか?」と現実的な困難を訴えても、「そこは緩めてもいいですよ」とか「質を維持できなくても仕方ないです」とは、大学側は言わない(学部長ぐらいのレベルなら言うかもしれませんが)。質は維持してちゃんとやってください、と現場の教員に言うだけ。責任は末端の現場に回されていきます。
それなのに、環境は全く整っていない。
オンライン授業というと、90分間の授業を動画やテレビ電話のような形で学生に視聴させ、インターネットを介して学生から発言や質問を受け付けたり、課題を提出してもらうという想像をする人が多いでしょうが、そんな水準には遠く及ばず、とりあえず簡単な資料やレジュメを読ませて、質問があればしてください程度、何かやった体裁にしているだけ、オンラインでは成り立たない類の授業も、それがわかっていて「やった体裁だけ」、学生がきちんと理解し身に付けるとは到底思えない内容でも、そうする以外にない、また、そもそもついていけていない(授業がまともに実施されていない)教員もいるらしい、当然でしょうね。

文科省が最も重視する「教育の双方向性」も、オンラインの遠隔授業でもそりゃあやれることは色々あり可能性は幅広いでしょうが、これまで各教員がやってきた双方向授業はそのまま使えないものが多いでしょう。各教員がこれまで試行錯誤したり、各分野で共有されてきた意義ある双方向教育はかなりの部分失われ、「双方向で何かしらやった体裁」にとって代わっているでしょう。
そして、きちんと受講したかどうかわかるビデオ会議のようなシステムは非常にコストも手間もかかるので(受講者数百人の講義だってあるし、週に15コマこなす非常勤講師だっているわけで)、そうではなく、せいぜいログイン記録を確認するだけか、「受講しました」という学生の自己申告をもって受講したと見なすしかない場合の方が多いでしょう。それできちんと受講する学生ばかりでしょうか。もちろん、教室にいてもまじめに学ぶ学生ばかりではありませんが、それとは比にならないほど目が届かなくなります。

もう挙げればきりがないほどですが、こんな状況なのに「オンラインでも成り立つことがわかった」なんてとんでもない。
本当に、とんでもないです。