動物倫理を考える(1)

synodos.jp

私が時々読んでいる、シノドスという若手研究者などが自分の分野を一般向けに説明するwebコラムサイトで、「動物にたいする倫理的配慮と動物理解」という記事がアップされていました。筆者はやはり若い研究者のようです。

動物倫理というか、動物愛護のロジックについては色々思うところがあり、以前から書きたいと思っていたんですよね。下書きを書いて消したりそのまま放置というものも、実はあります。難しい問題ですが、「どのように理屈付けるのか」という観点から見ると大変興味深いテーマだと思います。

久保田さゆり氏によるこの記事の概要は、次のようなものです。

近年、犬や猫の殺処分を失くしていこうとする動きが支持を得てきているが、牛や豚など食肉用の畜産動物に関しても、「食べるために殺すことの方が倫理的に維持できない扱いということになるのは、ほとんど確かである(上記記事から引用)」。また、畜産動物を育てるためには植物も多く消費しているので、そもそも人間も肉食をやめることはできないにしても最小にとどめ、なるべく植物を食べて生きていくことが倫理的である。

うーむ、そこはかとなく欧米のバックグラウンドを感じさせるような価値観…。

久保田氏のいう畜産動物を含む動物を倫理的に(なるべく)殺すべきではないという主な根拠は「動物の苦痛や喜びがもつ倫理的な重み」です。

「犬や猫も豚や牛や鶏も、苦痛や恐怖を感じたり、喜びや期待に溢れていたりといった内面的な豊かさをもつという点には違いがない」のであるから、完全に命を奪わず(動植物を食べず)には人は生きられないにしても、「そうした犠牲を本当に真剣に受けとるならば、少しでも犠牲を減らそうというのが素直な発想のはずである」と。

 

私は、動物愛護のロジックで一番難しいのが、「線引き」だと思います。

猫や犬を、ただそこにいる(野良だ)からという理由で殺すのは忍びないというのは、恐らく感情的に、あるいは直感的に多くの人が理解や共感をするでしょう。では、牛や豚や鶏は? 魚は? 植物は? 虫は?

段々と意見が分かれるようになり、植物となるとそもそも「命を奪う」という状況がどの段階なのか一般人にはわかりにくい事例も多々あり、更に蚊やゴキブリともなると、多くの人が「ただそこにいるという理由で殺すのは忍びない」という意見にあまり共感しなくなるのではないでしょうか。

あるいは、可愛らしいハムスターを殺すことと、深夜に地下鉄の排水溝を走るネズミを駆除することは、感情的に何とも微妙な事例になるかもしれません。

公益財団法人から表彰歴もある、とある動物愛護団体の代表は(ブログを結構読んだのですが)、「命は全て平等なのだ」というフレーズを繰り返し使い、強調されています。しかし、どう考えてもありとあらゆる命に、彼らが犬や猫に行うような愛護活動ができるわけもありません。

一般の人から、「じゃあ虫の命はどうなのだ」などと言われると、このブログの管理者などの愛護家(少なくとも別団体の二名のケースで)は屁理屈でケチをつけられていると感じるようで、特に論理的に反論されることはありません。

倫理学の研究者である久保田氏によるこの問いへの答えが、「苦痛や恐怖を感じたり、喜びや期待に溢れていたりといった内面的な豊かさ」の有無であるわけです。

内面的な豊かさ…?命の重みをそれで判断することに、率直にいって大きな違和感を覚えるのは私だけでしょうか。そして、内面の豊かさがあるか無しかは、人間からの視点で判断するのでしょうか。内面の豊かさがあっても動物の命の重さなどないといいたいのでは決してありません。そこで線引きしていいものか?と大いに疑問なのです。

魚類が苦痛を感じるか否かというのも、はっきりわかっていないだとか、苦痛を感じることが近年明らかにされただとかいう記事を読んだ記憶もあります。人間にもわかるような苦痛や喜びを感じないから死んでも良しというのは、なんというかおこがましいように思えてなりません。

 

長くなったので、続きます。