小室夫妻

ご結婚されましたね。
もはや「おめでとう、幸せになって」という雰囲気ですが、誰に忖度するでもない私は好きなことを書きます。

眞子さん(いきなり一斉に敬称が様からさんになることにいつもながら多少の違和感を覚えつつも、「様」を「殿下・陛下」に代わる尊称的に用いているととらえ、それに倣います)の会見での発言に改めて、「ああ、やはりもう21世紀に象徴天皇制を生身の人間で続けるのは無理があるのだな」と思いました。

特に以下の点。

・「私と圭さんを変わらずに応援してくださった方々に、感謝しております」→支持者だけに思いを向ける
・「海外に拠点を作って欲しいと私がお願いした」→日本にいたくない皇族
・「誤った情報があたかも事実であるかのように扱われ」→断定しているがあなたは究極的にはどれが事実かわからないはずでは?(明確な証拠は示されていない)

一点目、非支持者に対して「あんな人たち」と敵意を向けてその言い様を批判されていた安倍元首相を彷彿とさせます。首相は選ばれた以上、全国民の首相という立場で発言するべきですし、選ばれたわけではない彼女にも、皇族として全国民に平等に思いをむける存在であることをやはり期待してしまいます。でも、もはやそれは無理なことなのかもしれないなとしみじみ感じさせる発言でした。
上皇天皇が常に絶対に全ての国民に思いを向けていた(る)のとはやはり異なる印象をぬぐえません。日本には天皇制廃止論者もいるし、そこまででなくとも批判的な人々も多くいるものの、絶対に彼らは常にすべての国民に慈愛を向けるのに。

二点目、もはや日本にうんざりして逃げたいのですね。日本の象徴として国民のために祈る存在である天皇の、本人ではないにしろ孫という近い親族の内親王が。寂しいというか、残念というか。

三点目、矢印の右に書いた通り。信じたい相手をただ盲目的に信じているとしか思えません。それは即ち、特定の他人を嘘つき、悪人呼ばわりしていることを意味します。日本の象徴として特別な身分を与えられた皇族が、一国民を、です。

前の天皇や今の天皇のようなタイプがずっと今後も天皇として即位していくだろうという期待は、生身の人間、かつ世襲(誰が即位するか人格と無関係に決まる)である以上、もう持てない気がしてなりません。タイの王室を見ていても、人格者で国民に深く敬愛されていた国王が一代にして大変残念な有様になったりしているわけで。

一人の若い女性である彼女が幸せになる権利はないのか、みたいな論調もありますが、元々「皇族なんだから自由に幸せになるな」という話ではなく、「その男は勧められない気がするが」というのが、懸念派の国民の思いだったと思うんですけどね。彼女に不幸せになって欲しいと思う一般国民は別にいないのでは。

それでもこれだけの国民が違和感を覚えて賛成できなかったんですよね。

小室圭さん、ここまできたか

遂に眞子様と小室さんは結婚するようですね。

いやあ、正直、当初は破談に違いないと思っていましたが。

全く同時期に英国王室でもヘンリー王子とメーガンさんの問題が起きていることを考えても、21世紀社会で象徴的ロイヤルを維持しようとしても、こういう状況はどこかで生じるんでしょうね。

 

ところで、世間の結構多くの人が「小室さんになぜこうも難色を示されるのか」を既に忘れている気がします。

あんまり、不確かな情報で人を悪く書くことはしたくありませんが、「こうだ」というのではなく、小室圭さん及び母佳代さん「こういう情報があった」ということで振り返ってみようかと思います。

 

・400万円踏み倒し問題(母佳代さんが婚約者という名の実質的に友人程度の赤の他人に「お金が足りない」としばしば訴え、400万円という大金を受け取り、「もらったから返す筋ではない」と言い張る)

・困っている時に赤の他人という立場で400万も貸してくれた人の筈なのに、母だけでなく圭さんの態度含め扱いがあまりにひどい。(婚約者氏の証言色々)

・イジメ(子供時代、小室さんが陰湿なイジメの加害者だったとの被害者の告発)

・父親の自殺(佳代さんが圭さん学費や家の購入のために相当無理な金の使い方をし、父親に過度のストレスか?)

・後を追うように父方の祖父、祖母も自殺?

・その際に遺産を巡る佳代さんの守銭奴ぶり。

・学生時代の圭さんはチャラ男のパリピだったらしい。

・米国の名門大入学や米国での就活にも、「プリンセスのフィアンセ」をせっせとアピールし、それが効いた可能性も高いとこれらの世界を知る人々のコメント。

 

特に父親の自殺の背景は、客観的事実らしい点だけ見てもかなり違和感を覚えます。地方公務員と専業主婦家庭で、息子圭さんは私立の小学校→インターナショナルスクールの中高。いずれも学費の高さはいうまでもなく。

更には圭さんの学校近くに家を購入し、重いローン負担の一方で父親は長距離通勤を強いられていたとか。これが事実なら、息子を分不相応な学校に入れるために父親を清々しいまでのATM扱い。母親のこういう姿勢には嫌悪感しかありません。この件は事実だとしても子供だった圭さんに責任はありませんけど、こういう母親に歪んだ「あなたは特別」という育てられ方をしたことがお人柄に出ているようないないような。

もし報道が真っ赤な嘘だとすれば、莫大な遺産でも実はあったのか、宝くじでもあたったのか。その割には数年後に400万円無心してるわけですが。

小室さんの学歴や父親の職種以外はいずれも真偽は定かではありませんが、全てを嘘だというにはあまりに多い周辺の証言や状況証拠。

これらの話から見えてくるのは、分不相応に周囲を踏みつけることもいとわず社会の上澄み層へ食い込もうとした小室母子の一貫した姿勢です。

社会の上澄み層に食い込みたくて仕方ない…「あっ、それで皇室に近づきたかった?」と当然思いますよね。

眞子様と純愛なのか・・・?眞子様の側はそうなんでしょうけど。という疑問も当然わくわけで。

 

400万円の話ばかりが目立って、「母親が400万円借りたのかもらったのかもめているだけ」「息子は無関係」「二人は純愛」みたいに無関心な国民にはぼんやりと理解され、「本人の希望で幸せになる権利がある」みたいな意見も多くみられるような気がします。

 

「いや、そうじゃない。もっと多くのドロドロした疑惑があるんだよ」と言いたくなります。

「純愛じゃないなら多額の一時金をもらえないなら小室さんは結婚をやめそうなものなのに辞めないんだから純愛」とのコメントもどこかで見ましたが、「ロイヤルに繋がる」というのがどれほど有形無形の力となることか。特に米国みたいな社会では。眞子様内親王でなかったら小室さんは結婚しただろうか?上記を踏まえると、しなかっただろうなと100人中200人ぐらいが思うのでは。

内親王だから自由恋愛せずに結婚しろというのではなく、これは内親王どころか自分の近所の娘さんや親せきの子であっても結婚を止めたくなるダークな疑惑の数々なわけで。

 

白々しいかもしれませんが、上に挙げた多くは真偽のほどは定かではないと念を押しておきます。

 

まぁ、真偽が定かではないこと以外にも、ちょいちょい首をかしげるようなところはあり、

・これだけ叩かれても婚約を辞退しない。

・婚約発表記者会見で眞子様を月に例える(自分が太陽か地球とでも言わんばかりのニュアンス)

・誠意や感謝や反省のない、自己弁護に徹した文書。

 

この辺りからも、この小室圭さん、上皇夫妻や天皇夫妻が努力して積み上げてきた、ひたすら控えめに、そして国民を想いやる姿勢というのを尊重するお人柄には見えないんですよね。自分大好き、自己評価が高く、のし上がりたい野心家、みたいにしか、現状見えないと言わざるを得ず。

正直なところ、別段皇室ファンでもない私ですが、「これが未来の天皇の義兄かぁ」「一日本国民である400万踏み倒された慎ましく生きる老人への配慮が微塵もない、これが内親王かぁ」みたいな残念感が漂ってしまいます。

飯塚氏控訴せず

msr2do.hatenablog.com

前回この記事の中で、「きっと控訴して裁判を長引かせるに違いない」などと書いてしまった、池袋暴走事故の飯塚氏、控訴しない意向だそうで。決めつけてしまってごめんなさい。

 

とはいえ、この段階で控訴せずならなぜ初めからもっと反省し謝罪しなかったのですか。被害者や遺族の心につけた傷は、取り戻せませんよ。

判決が出て心が折れたのかもしれませんが、なぜ今になって「申し訳ない」と口にしたのか、やはりこの人は不思議です。

飯塚幸三とエルサレムのアイヒマン

池袋暴走事故の地裁判決が出ましたね。禁錮5年の実刑判決。
まあ、恐らく控訴するんでしょうね。最高裁までいけば、判決がどうなるかにかかわらず更に何年も在宅のままで過ごせる状況なわけで。それまでに、こういってはなんですが天寿を全うされるかもしれませんし、更に高齢になって実刑判決が出ても執行されないかもしれないので。

ところで、以前から思っていたんですが、この飯塚幸三、誰かを思い出しませんか。
誰かといってもタイトルでバレバレですが、エルサレムアイヒマンです。

ナチの役人で、ユダヤ人絶滅作戦に深く関与したドイツ人です。戦後逃亡し、1960年になって捕まり裁判にかけられ、死刑となりました。
哲学者ハンナ・アーレントがこの裁判について本を書き、非常に有名になっています。

思い出すといっても、元官僚とか、裁判にかけられたことが似ているというのではありません。
似ているのは、「自分がしでかしたあまりに大きな罪に全然ピンと来ていないところ」です。

詳しくはアーレントの著作を読んでいただきたいですが、彼女はこのアイヒマンという人物が悪魔のような人物だから平気で多くの人間を虐殺する計画にせっせと参加したのではなく、それをリアリティをもって想像することもできない、ただただ組織の中で出世したい認められたいというような小さな欲望のために動いていた凡庸な人物なのだと述べ、当時世界に衝撃を与えたようです。絶滅作戦に深く関与したナチの役人など、悪魔のような人物だと世界は思っていたわけですから。

池袋の事故は事故つまり過失なので、故意にやったアイヒマンとは、「なぜやったのか」はもちろん決定的に違います。
そして小役人だったアイヒマンに比べて飯塚幸三の経歴はあまりに輝かしいものです。

しかし、この不気味なまでの「他人事感」。「ピンときてなさ」。やはりアイヒマンを彷彿とさせます。
「事故からの二年、あなたはどう生きてきたか」と遺族に尋ねられ、「病気になって、毎日リハビリしてましてね、しんどいです」とかいう恥ずかしい珍回答をやってのけたのも鮮烈に記憶に残っています。

どうやったらこんな風に自分のしたことを実感せずに都合よく解釈して、というか感じて、しれっとしていられるのか?
百歩譲って本当に車の不具合だと(自分がどのペダル踏んだかももはやよくわからず)彼本人は信じていたとしても、自分の起こした事故で多くの人が死傷した事実はあるというのに。

アイヒマンだけ見ると、それなりにナチの中で地位を得て働いていたとはいえ、ただロボットみたいに働くだけのアホの子だったのか?と思ってしまえないこともありませんが、飯塚幸三の経歴を見るとそうは思えません。
賢い人間、普通の人間でも、こういうことってあるんでしょうなぁ。
この世界で唯一の知的生命体なんて言われながら、人間てこの程度の生き物なんでしょうか。
ものすごく酷いことをした本人が、(しかも理解不能な狂信者や悪魔的人物でなく、普通のまともな人、あるいは立派な人が)きょとんとして、「え?僕が悪い?いやいや」と心から思っているというようなケースが、当たり前にあるものなのでしょうか。

 

彼らは「認識しているが後悔したり被害者に同情しない」という共感性の欠如したサイコパス的な人間なのでしょうかね?しかし共感性が欠如しているのが原因なら、事態の認識はもっとちゃんとしているはずなのでは?素人なのでその辺は全然わかりませんが。

アカポス公募。なぜ抱負を書かせるのか?

長年、研究職でのポストを求めて就職・転職活動をしてきた私ですが、今は採用人事に関わっています。う~ん、感慨深い。

今日はそこで感じたことを少々。

 

公募書類って一通作るのも大変な手間がかかりますよね。企業に応募する際の履歴書とは全く違うと思います。更には使いまわしもし難いため一通一通準備しなければいけない場合が多く。

そんな公募書類の中でも、「抱負」を書かせるものは少なくありません。

大体が研究の抱負や教育の抱負です。

これが果たして人を選ぶ重要な基準になるのだろうか?と疑問に思ったこともあるのではないでしょうか。

まあ、研究の抱負があれば論文のコピーや業績リストでは見えてこない、これまでの研究をどうこれから発展させる展望なのかがストーリーだってわかるので、とても役立つでしょう。

教育の抱負も、その分野の教育経験がしっかりあるか、試行錯誤して工夫しながら授業をしているかが垣間見えるので、有意義です。

 

しかしそれ以上に、多くの「抱負」を読む機会を得て今回なるほどと感じたこと。それは、抱負などのエッセイで

「その人の性格と思考の整理能力などがある程度、伝わってくる」

ということです。

やはり文章って人を表しますね。たった1-2ページ程度の分量でも、(全ケースとはいえませんが)個性が出ているのがとても面白い。

科研費の申請書の書き方のコツ」を参照したみたいな抱負もしばしばみられ、そうした通るためのテクニックもありますけど、そうしたテクニックを使って優等生的に書けば無個性になるかというと、そんなことはない。

 

わかりやすい例を挙げれば「ああ、この人は巨視的にものを見られる人なんだろうな」とか、「独りよがりでわかりにくいな」とか、「小説みたいな凝った表現が好きだが内容薄いな」とか、教育にこういう姿勢で臨んでることが、この研究テーマのチョイスに繋がるのが垣間見えるな(ちなみに教育学ではない)だとか。

その他細かいニュアンスでも色々な個性が伝わってくるものです。

 

抱負とは、自分が書いていた時に考えていた以上に、すごく参考になるものだったのだなと今頃しみじみ。

アカポス就活中の皆様、ご参考までに。

 

ああ、それから小技ですが、現住所は違う地域なのに応募先の大学が実は出身地であるという人は、履歴書にそれを匂わせるといいかもしれません。

普通は空欄にすることが多いであろう「その他の連絡先」に実家を書いてみるとかね。

特に首都圏以外は、「採用した教員がこの地に根付いてくれるか」を多少なり気にしていると思うので、少し好印象にはなるかもしれません。

「大きな物語」とアイデンティティと動物愛護

msr2do.hatenablog.com

こちらの前回の記事の続きです。

 

動物愛護団体(アフリカとかオーストラリアとかではなく、街中の犬猫の)は近年、犬猫の去勢避妊手術の推奨が主流のようです。

TNRという、野良猫を捕まえて去勢し、再び同じ場所に離して「一代限りの命を全うさせ、それを見守る」活動もよく見聞きするようになりました。

去勢避妊手術というと、シンプルに「可哀想」とまず思うのは人情でしょう。

しかし、「それしかない」というのが、手弁当で必死に動物のために活動するボランティア多数の結論であり、知れば知るほど、「やはりそれしかないね」と私も思います。詳しくはここでは省きますが、ネットにあふれる保護猫団体などの発信を読んでください。簡単に言うと、野良猫は多くが「貧しく悲惨で短い」とホッブズの自然状態そのままのような生涯を送り、しかも繁殖力が非常に高いのでどんどん増えて(餌、水、縄張りといった)環境は負のスパイラルに陥るというわけです。
いうまでもなく猫は避妊などしないし、繁殖期には本能のままに交尾し繁殖します。しかし、多くの子猫が生まれても飢え、病気、争い、交通事故などで飼い猫と比べ圧倒的に短い命に終わるわけで。

愛護団体としては、「でも子を持つのが幸せのはず」とは到底思い難い現実を日々目の当たりにし、去勢・避妊手術をして見守るという結論に至っているのです。

しかし、これに「子供を持てない手術をするなど酷い、人間のエゴだ」と頑なな人々が少なくないようです。
もちろん意見は人それぞれで、より現実を見ている側が常に正しいとは言いません。しばしば、現実を見るあまり大局を見失う場合だってあります。
しかし、この頑なな人々の中には、恐らく自らのアイデンティティを反映させて犬猫の去勢・避妊を受け入れられない人が少なくないと考えます。子を持ち先祖から子孫へ命を繋いでいくことが何より生きる意味であり価値であるというアイデンティティを持つ場合、それはどんなに保護活動家が必死に野良猫の悲惨な状況について訴えても響かないでしょう。
その人々は、猫の「子を持てるが、貧しく悲惨で短い生涯」と「子を持てないが、より餌にありつけ、縄張り争いがマシな状況」を比較したうえで、前者の猫がより幸せである、と思っているわけではないでしょう。
子を持てない命を肯定することが、自分の人生の価値を損なうかのような意味を持ち得るため、受け入れ難いわけです。

「きっとこの人はどんなに悲惨な野良生活を送り若くして死んでいく猫が多いか知らないだけなのだろう」と思い必死に啓もうに努める保護活動家の皆さん、多分、そうではないと思います。

ではどうすればいいのか?個人的には、法整備を目標とした方が良いと考えます。

選択的夫婦別姓を必死に否定する人が守りたいもの

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出典 「21世紀少年(下)」

先月、最高裁大法廷が「夫婦同姓を強いる現行法は合憲」であるとの判決を下しましたね。(これはいうまでもなく夫婦別姓が「違憲」だという意味ではありません)

これ、実は私の専門にびみょ~にかすっているといえなくもない(笑)ので非常に関心がある時事ネタです。 

 

各種世論調査でも選択的夫婦別姓への反対派は少数派になっていますが、強硬な反対派の存在(特に一部の与党議員など)もよく知られているところ。

賛成派や「関心はないが別に反対でもない」派にとっては、なぜそんなにも必死になって反対するのか不思議でならない、と感じる人も多いでしょう。

だって、「選択的」夫婦別姓制度は、同じ姓でいたい、同じ姓を選びたいカップルには何ら影響を与えない制度のはずなのですから。

自分に別に影響がないのに、なぜそんなに他人がどういう姓で生きるかについて必死に反対する必要があるのか?不思議ですよね。

 

よく反対派の論拠とされるように、本当に家族がバラバラになるのかだとか、まして彼ら自身の損得だとかを考えていても不可解なままです。

そうではなく、これはアイデンティティの問題だと考える必要があるでしょう。これをかなりざっくりまとめてみたいと思います。

古代から近世頃、部分的には20世紀までは、世の中にはどの国にも地域にも大概「大きな物語」というのが存在しました。それは古代から中世は多くの場合宗教だったでしょう。身分制や文化慣習、地域の掟の類も含みます。それを疑わず、依って生きていけば安心できて、善き人生、価値のある人生を送る(と信じる)ことができ、守られ死後の名誉や幸福も保証されるような、いわば「(当人たちにとっての)世界の枠組み」です。

しかし、現代の社会では世界中の情報が入手でき、何もかもが多様化し、科学があらゆる方向性に高度に発展し日常生活に入り込んでおり、そんな局地的な価値観の体系である「大きな物語」は説得力を失い、多様性の尊重という新たな人権原則の下にむやみとそのうちの一つの物語を強いることもできず、衰退していくわけです。

現代人の多くが、特定の「大きな物語」になしに生きることになりました。特に、物事を突っ込んで考えるタイプの人間は、局地的な「大きな物語」が局地的であって絶対的な真理ではあり得ないことから目を背けることは無理でしょう。

しかし、「依って生きる大きな枠組み」がないと足元に穴があいたような不安感に苛まれる人は多くいます。つまり現代でも人は時に宗教を信仰し、地域や民族の世界観を強く信じ、それを誇りともし寄る辺ともして生きていくわけです。

日本人の一定数の人々にとって、その「大きな物語」こそが先祖→自分→子孫という生命観、その軸を核とする「家」(夫婦機軸の西洋的ファミリー観とも違う、家系観)であるといえます。

法律上の「家制度」はもう無いんだよとかいう問題ではないのです。彼らにとってこれは、依って生きる「大きな物語」、つまり世界観なのですから。

「そういうのは色々ある多くの世界観の一つだけど、あなたがその信念で生きるのは尊重するよ!」と言われても彼らはちっとも嬉しくありません。

なぜなら、それは個人的な意見や趣味嗜好でチョイスした多数のうちのひとつであってはならず、絶対的な存在でなければならないからです。少なくとも「日本人にとっては真理の物語」である必要があるのです。

色々あるうちのひとつだなんて、「大きな物語」が「大きな物語」であることを否定されているに等しいので、絶対に許すわけにはいきません。

冒頭の画像、20世紀少年という漫画のワンシーンなのですが、ごく簡単にいうと「ともだち」と呼ばれる正体不明のカルト指導者のような怪しげな人物が段々世界を支配していき、その謎を追う、みたいなストーリー。終盤で「ともだち」派の女が、「あなたは洗脳されていたんだ」と主人公側(謎追求側)に言われて返す言葉がこの画像のシーンです。

 実際は洗脳されている側が客観的にこんな心理を言語化できたりはしないでしょうが、非常に興味深く印象に残っていたシーンです。

 

 同じ姓を名乗り男女の夫婦で子供がいる家族。先祖から受け継いだ命を子孫につないでいく。

 

この枠組みは「本物」だ!そうでなければ自分の人生は何だったんだ!

 

と。これが唯一の「本物」でなければ自分と自分の人生に価値を与える核たる部分が揺らいでしまう人々がいるということです。(あ、この場合は別に洗脳ではないですよ)

だから、自分の人生や家族に具体的に何か影響を与えるわけではないはずの、赤の他人が別姓で結婚し日本で家族として認められる、ということを全力で阻止にかかるわけです。

 

必然的にそれは同性婚や選択的子なし夫婦に関しても同様となります。これを理解していなければ、議論は平行線でしょう。