査読結果

春休み中に注力していた論文の査読結果が出て、修正の結果、掲載していただけることになりました。

修正といっても誤字脱字のような些細なものではなく、major revision(内容にまで突っ込んだ修正)が求められたのですが、無事通ってホッとしています。

ご存じない方のために説明すると、査読という審査付きの学術雑誌と、実質投稿された論文をほぼ全て通す大学発行の雑誌(紀要)などがありまして、前者に載る方が当然望ましいことになります。

 

今回しみじみ思ったのですが、アラフォーの良い年の大人ともなると、他人様から厳しいことを言われる機会というのは、顕著に減りますよね。

叱られたり、ダメ出しされたり、説教されることはほとんどありません。時々学部長や学科長に事務仕事に関して軽くダメだしされるぐらいでしょうか。

そんな良い年になって、必死に書き上げた自分の全力の結果であり、専門の粋というべき論文に厳しいコメントをもらうというのは、もちろん凹みはします。しかし、これって貴重でありがたい機会だなと思うのです。

報酬がもらえるわけでもないのに、長文で審査結果を書いてくれた査読者の方々、こんなところでなんですが、感謝しております。

今回も結構気づきがありました。自分のウィークポイントや、気づかなかった点を厳しく突っ込んでもらえるなんて、なんだか、高い学費を払って指導してもらった学生のような気分です。気づいて改善し、成長できるのですから。

凹むのは凹むし、コメントを読んだ直後は腹を立てすらするんですけどね。それでもよく読むと、的を射た指摘が大部分です(たまに、誤解や査読者の知識不足に基づく批判もあったりはする)。

とある大きな組織のトップの傍で仕事をする人が、そのトップがかつて「自分には誰も何も言ってくれず、孤独だ」と漏らしたことがあると言っていました。

そうなのだろうなあ。大きな組織のトップともなれば、誰も何も言えやしないのでしょう。

そう考えると、研究者は何歳になっても互いに切磋琢磨できる環境があってありがたいのかもしれません。

 

厳しい査読結果や、学会でのコメント、あるいは博士論文指導に心折れてしまい、論文を書けなくなる若手研究者や院生もいる、とベテラン研究者から聞いたこともあります。大学院時代にも、そんな仲間がいました。優等生として人生歩んできたからこそ、手厳しい批判に自らをさらすことを避けてしまう人もいるように思います。

それもわからないでもない気がします。

理不尽な上司に怒られるアラフォー社会人はたくさんいても、全力で能力と努力を形にした成果に的を射た厳しいダメ出しをもらうって、他の職業ではそんなにないのではないか・・・。

研究者に必要な能力には、メンタルの強さもあるかもしれません。多くの人は、ポストがない中で公募に応募し続けなければならないというキツさもありますしね。

若手研究者よ、図太くがんばろう。図太い人は、研究者としての適性がひとつあるといってもいいのかもしれません。