2020年を振り返る

かつてない年となった2020年が暮れようとしていますね。

 

私はようやくテニュアポストを得て希望に満ちた新たな出発の年でした…といいたいところですが、それどころではないこんなかつてない年になるとは。

戦争中の銃後の社会とある意味近いのかもしれない、と思ったりします。

この先どうなるんだろうという不透明さ、社会は元に戻るのか、人生や生活が劇的に変わってしまった多くの人々、立ち行かなくなるいくつかの産業。

そんな「不安」な感覚って銃後の社会に共通していそうだなと。

 

一日も早くこの状況が収束しますように!

 

2019年末には、「今年買ってよかったもの」という記事に「そういやあまり大したものを買っていないなあ」というようなことを書きましたが、

msr2do.hatenablog.com

今年はあることに30万円以上使いました。

さて何でしょう!?

高級ブランド品?コレクション?理想のイス!?(下の記事を参考に)

msr2do.hatenablog.com

 

 

 

正解は・・・歯科です。

学生時代に治療した虫歯、「一生は持ちませんので、そのうちやり直す必要がある」とは言われていましたが、その箇所を含め数か所、保険適用外の詰め物やかぶせ物を使い、治療にトータル30万以上かかりました…。

もちろん、日々のケアも不十分だったようです。情けないことに。

 

来年の目標は、とりあえず「健康に気をつける」で。

菅さん

今更ですけど、政治家(政治家全般というより閣僚級の人々)の謝り方って本質的ポイントを絶対に避けてどうでもいい点に関して謝るというのが、もう決まりみたいになっていますね。

彼らが謝罪し反省するのはほぼ

「お騒がせたこと」

「誤解を招いたこと」

に限られます。

菅総理が国民に自粛を呼びかける一方で自身は多人数で会食したことに対して「誤解を招いたこと」を「反省」すると発言し、批判と反感をよんでいます。

これに対し、「何が誤解なのか?」と官房長官の記者会見で問われても、当然のように答えはない。「反省してるわけだからそれでいいでしょう」といった返答。

非を認めたらどうなると思っているんでしょうね?

うやむやに誤魔化すことで信頼や権威が保たれるとでも?むしろ「驕りがあった」「断りがたいと感じてしまった」「不適切だった」と潔く認めて謝罪し、二度としない、とした方がよほど国民の印象は良いと思うのですが。

「ソーリー」と口にしたら非を認めた証拠とされて裁判で負ける、という場でもあるまいに。

 

教員でもたまーに、間違いを絶対に認めず、学生に指摘されたりすると「無礼な!」といわんばかりに不機嫌になる人もいるようで。

人間だから間違いはあるし、(残念ながら)天才ではないので知識に限りもあります。

しかし、自分の専門分野では学生たちに教えるのに十分な知識は持っているし、努力もしてきた自負が私にはあります。当然知っているべきことを知らなかったら恥ずかしいですが、それはないと自信がある。だから、知らないことを学生に指摘されても私は別に恥じません。

 

菅さんの最大の特技は「組織やインナーサークル内でうまく立ち回ること(そしてのし上がること)」だから、「自分の言葉や信念には絶対背いていない」みたいな方向性は苦手でしょうね。器用に狡猾に立ち回り権力を得る方向性とは残念ながら逆方向でしょう。

 

そうそう。彼の「エビデンス」の使い方って、わざとなんでしょうかね?

感染者増加の原因がgo toキャンペーンだというエビデンスはない、と言っていましたけど、いうまでもなくgo toキャンペーンが原因だという証拠がないだけであって、原因でないと証明されたわけではないのですが。(一般人でそういう誤解をしている人は多いものの)

1.上記のことがわかってない

2.わかっているが、キャンペーンが原因だという確証がない限りはリスクをとってもキャンペーンを続けたい、という意図。

3.一般国民に多数いる上記がわかっていない人々(中でも支持者)に対するミスリード(go toキャンペーンが原因ではなかったのだ、と思わせたい)。

 

3だったらゲスいですねー。

お久しぶりです

ずいぶん久しぶりになってしまいました。

研究関係の締め切りが重なっていてどうも他のことを考える余裕がなく。

恐らくそのプレッシャー(ストレス)でよくわからない神経痛になってしまい、立って授業するのが精いっぱいという体たらく(3週間ぐらいで治りましたが)。インドア系虚弱が年を取ると恐ろしいことにぼちぼち気づき、何か運動でもしなければと思う今日この頃です。

 

ところで、面白いブログ記事を目にしました。

tjo.hatenablog.com

簡単にまとめると、研究者志望のまじめで優秀で一本気なポスドク青年が、真面目ゆえに見過ごせずに研究の世界の様々な歪みや問題をブログで訴えるなどの運動をし、結果としてどうもそれが就職の障害ともなり、研究者を諦めることとなったと。

そのプロセスが詳細に書かれていて、とても興味深い記事でした。

ちなみに、最後はデータサイエンティストとしてgoogleに就職するというハッピーエンドとなっているので、安心して読めます。

 

記事を読んでいて、きっとこの人は優秀なんだろうなあというのが伝わってくるのですが、業界の歪みをつついて腫物、厄介者になってしまった以外にも、彼が研究者のポストを得られなかった理由がもうひとつありました。

自分がやりたい研究に突き進んだ結果、きれいなデータがなかなか得られず、思うように業績(論文)が出せなかったのです。

ああぁ、ものすごくわかります・・・。そうなんです。

「自分はこの研究をやりたい!」「これこそ意義があるテーマだ」というような研究と、「無難に業績を積んでいけそうな」研究は、しばしばものすごく異なるのです。

研究者というと世間のイメージでは、たとえマイナーであっても特定のテーマに情熱を持ち、それをとことん追求したい!という感じではないかと思いますが、私の身近には、情熱もなければたいして関心もないのに、結果が出やすそう/論文にしやすそうなテーマ、現在求められているテーマ、ポストを得やすそうなテーマを”賢く”選んで、割と淡々と研究している人がたくさんいます。でもそういう研究者は、研究に情熱がないのですぐに研究をやらなくなり、学内政治に張り切り始めたりしそうですけどね。というか、独裁系大学ではりきって独裁者の目に留まろうと雑務や学内行政にまい進している同僚はそのタイプでした。(研究スタンスは自分で堂々と言ってました)

このブログの人みたいなタイプは、本当に真面目で一本気なのだと思います。彼みたいな人こそ研究者気質だと思うのですが、彼のような立ち回り方では、ただでさえ厳しい競争を勝ち抜くのは逆説的に不利になってしまう。論文の数で評価され、スポットライトの当たらないマイナー分野や何らかの実用につながらないテーマなどは重宝されない。

私はといえば、本当にやりたいテーマを、「もっと就職に有利な研究をやれ」という先輩や先生のアドバイスがありながらも大筋では貫きつつ、しかし就職のことを常に頭の片隅に置いて、需要がありそうな方向へ微寄せして研究する、というような、よく言えばどちらも取り、悪く言えば中途半端なスタンスできた感じです。

そういえば、 テニュアのポストが得られた今、もっとやりたいことをやっていいのか。

就職はできても「研究費を取りやすいように業績を積んでいく」という課題は引き続きなわけですが、たまたまそれほど大きな額の研究費がなくても研究できる分野な上、大学の個人研究費や学内競争資金がありがたいことに非常に潤沢なので、それほど死活問題ではないですし。

 

 若手の皆さんには、研究への情熱をもって欲しい。でも、器用に・・・。独裁系大学でなくても、世の中、(企業や大学など小さな組織など特に)まだまだ本で学んだほど民主的ではないんですよね。余計なことを言うと潰される。自分に実害がなければ間違ったことも理不尽なことも見て見ぬふりをせよというのは、残念ですが真理だと思います。

 

とりあえず私は、ブログでぐらい言いたいことを言うために、所属先やフルネームは伏せてやると決めてます(親しい同僚に読まれたら、バレる可能性もありそうですが)

冷静に話し合いたい

msr2do.hatenablog.com

先日、こんなブログを書きましたが、学術会議問題、なんだかますます学術会議の方が批判の的になっている気が。

しかし、今回の問題の本質からズレた批判ばかりですし、学術会議、というか学問界が好かれていない印象がすごいですね。

「なんで?」「嫌われるような存在ではないはず(挙げられている理由はいずれも恣意的な個別的理由のピックアップで全く説得的ではない)」と思うと同時に、まあ、よくある現象だよなとも思います。

4年前のアメリカ大統領選挙の際にも感じましたが、(アメリカの)外から見ていると、なぜそこまで嫌われる?と首をかしげるヒラリー・クリントンの嫌われぶりは、メール問題などは本質ではなく、いかにもなエリート層、特にインテリだからだったそうで。

安倍・菅政権の支持層、それも、政策というより伝統や外交面での保守的・ナショナリストな立ち位置に共感を覚え自尊心をバックアップされる層にとって、いけすかない知的エリート層がろくにカネも生み出さないくせに大好きなナショナリスト指導者(菅氏)を批判することが許せない、ということなのかと。

 

こういうことを書くと世間の半数ぐらいから嫌われてしまうのでしょうか。好きなことを書くためにあえて匿名にしているブログなので何でも書くまでなのですが。

 

しかし、問題を冷静にとらえて論理的に批判するなり受け入れるなりしましょうよ、と言いたい。敵と味方に分かれて全肯定・全否定みたいになってしまってやしませんか。

学術会議に今回の件とは全然関係のない問題が多少なりあったとして、それで任命拒否問題が正当化されるのはおかしくありませんか。

 

www.asahi.com

ところで、足立区の区議が、「世の中の全員がLGBTだったら次の世代が滅ぶ」「だからLGBTの人々を法律で守るべきではない」「普通の結婚をして子供を産み育てることの大切さを教えるべき」と発言していることが話題になっていますね。
この論調、時々目にしますが、なぜ「全員そうなると滅ぶ」という発想につながるのでしょう。
LGBTは流行や時世でなったりならなかったりするものではなく、基本的に本人の意思と無関係なものなのでは?
つまり全員そうなることはあまりにもあり得ないにもかかわらず、なぜ「全員がそうなったら」なのでしょう。
そしてついでに、もし「全員がそうなったら」を考えるならば、各女性が3人以上の子供を産むとすると、「全員そうなると数世代で危機的な人口過剰となる」とはなぜ誰も言わないのでしょうか?
理屈で言うならそっちも検討していただきたい。

「それは物のたとえであって」みたいな反論が聞こえてきそうですが、じゃあなぜ「法律で守るべきではない」のでしょうか。それ以外には特に根拠が見えてきません。

理屈でないなら、「単に伝統的な家族観に反するので感情的に受け入れがたいのだ」と言うべきで、理屈で言っている風を装うべきではありません。

一つ一つの問題を冷静に議論しあう世の中にしましょうよ。

喜ぶ人々

学術会議問題、研究者界隈では非常に話題となっていますけど、菅氏がこうしたことをすることに何の驚きもありませんが、ネットで菅支持層と思しき界隈やらいわゆるネトウヨと呼ばれる界隈の言説を見ると、改めてうわぁすごいなと脱力しますね。

ざっくりいうと、

「任命権があるのだから当たり前」

「学術会議など存在意義はない。調子に乗るな」

「むしろ無駄な存在であることを自覚しろ」

みたいな論調が多いよう。皆むしろ「いいぞやれやれ」という感じで喜んでいる。

嫌いな意見(の人々)がダメージをくらうと喜ぶだけって、そこに理はあるかみたいなことを考えて虚しくならないのかな?当然ならないんでしょうね。

ここで「安倍政権や菅政権を強く支持するがこれはいただけない」みたいなことを言う方がかっこいいのに。

 

※学術会議問題

学術会議という学者から成る機関の会員候補を、会議側が推薦した中で安倍政権に批判的な立場を示したことのある6名だけ首相が任命拒否したという出来事。これまで任命は形式的であり首相の任命拒否は前例がないそう。

日大非常勤講師差別発言問題と非常勤講師のあり方

www.asahi.com

大学教員がとんでもないことをしでかしたニュースが話題ですね。

記事のタイトルから受ける印象よりも、実際の発言は大分酷かったようです。しかも、授業中の発言だというので驚きます。

特定の人種をさして「あの人種の連中はすぐに犯罪をする」というような発言や、「武漢ウィルス」というトランプが中国を誹謗するコロナウィルスの呼び名を使ったり、障碍者や女性への差別発言もあったりしたとのこと。

せめて、人種や人権、差別といった問題から遠く無関係な学問分野(無機物を扱う分野とか、数学とかでしょうか。例えば。)の講師であってくれ、と思いながら検索してみると、まさかの法学…。嘘でしょうと言いたい。

この問題の署名運動のサイトがあり、その他にもちょっと検索すると当該講師はフルネームがばっちり出てきてしまいます。これはネット上の推測ではなくどうも本当にこの人のようですね。法思想も専門に含んでいるようですが、いったいどんな法思想を学んでいたというのか。

「論理的に考える」ことを商売にしているはずの大学教員なのに、ある人種を一般化し、「この人種の連中はすぐ犯罪をする」などという、論理性の欠片もないことをどうやったら疑問にも思わず学生に開陳できるほど信じられるのでしょうか。例えば(あくまで仮定の例ですが)、「アフリカ系の人種の方が東アジア系よりも筋力が有意に高いというエビデンスがあり、その結果として東アジア系の人々は特定のスポーツでアフリカ系より弱い」というぐらいのことならあり得るかもしれませんが、この講師の発言はどう考えてもそういう類ではありません。

更には、この発言をオンライン授業で行っていた音声データがばっちり残っているそうです。オンライン授業でなくても、学生がレコーダーを持ち込んで録音することは可能でしょうが、それに比べてはるかにハードルが下がり、準備もせずにデータが残る「オンライン」で、疑問もなくそんな発言をしてしまうとは。何も考えていないのでしょうか??はっきり言って、バカなのか。同じ社会科学系の大学教員として恥ずかしい。

 

この報道を目にして改めて思ったのが、非常勤講師の採用が専任教員と比べるとものすごくザルであることが多々あるということです。

専任よりもよっぽど教育力が高く、学生にも(楽単などではなく良い意味で)大人気のすごい先生方もたくさんいらっしゃるものの、非常勤講師の質はかなり玉石混合です。一人の専任教員が見つけてきて、「この人にしようと思いますがいいですよね」と形式的に会議にかけられ、誰も何の意見も質問も出さずそのまますーっと通って採用されるという講師が、長いこと大学で教えるということがごく普通にあります。つまり、面接も模擬授業もなしに、競争的に他の候補と比較して優れていたという事実もなしにです。更に言えば、紹介してきた専任教員もその人を直には知らないことも当たり前にあります。

大学内部の人間以外がこれを聞いたら、結構驚くのではないでしょうか。

専任の採用がものすごくシビアで厳しい競争状態であることと比べると信じがたい差です。

しかし、採用はこのようにあっさりでも、逆はそうではありません。大学は非常勤講師を解雇したり、それどころか担当科目を変えたり担当コマ数を減らしたりすることすら、見聞きする範囲では、タブーに近いように避けようとすることは多いようです。もちろん労働者保護の観点からむやみと解雇や担当減をされては困りますが、「非常勤の先生のコマはおいそれと変えられないのでできるだけ専任で調整しましょう」となることも珍しくなく。(実際に知っているサンプル数は少ないのでそうでもないケースも多いかもしれません。悪しからず)

推測ですが、大学の教育は大変安価な給料(1コマ2~3.5万円ぐらい/月)、不安定な身分の非常勤講師なしには成り立たないのが明白な中、あまりに非常勤講師に無慈悲な対応をして大きな反乱が起こったりすると、大学は困るのでしょう。現状のまま非常勤講師に黙って働いていて欲しいのだと思われます。コマ数の増減で生活に大きな影響がある講師も多いわけですし。

今回の講師の件も、学生たちは講師の解雇を求めており、大学は解雇はせず対処するとのことで「こんな差別主義講師を雇い続けるなんて!」という反感は多いでしょうが、解雇するという決断は重く、やはりよほどでなければ即解雇はできないでしょう。下手したら裁判になりますし、ついでに相手は法学者ですし。

それにしても、こんな授業を受けさせられた学生たちが気の毒過ぎると同時に、抗議の声をちゃんと上げたのは立派です。

学生の皆さん、何かおかしいと思ったら声をあげましょう。

教室での初授業

f:id:msr2do:20200926224021j:plain

多くの大学では後期が始まったことかと思います。
まだまだオンラインでの授業も多い状況ですが、教室での通常授業もかなり増えてきたようですね。
私はようやく、この春着任した現在の大学で学生の顔を見ながら初めて授業をしました。

配布資料の束やパソコンを抱えて教室に向かう。
学生たちの表情、反応。
授業を終えて機材を片付けていると、質問などで話しかけてくる学生。
顔と名前を覚えるべく、特徴を密かに探す。
教室を出ると、昼休み前の授業であれば学食や購買には既に長蛇の列。
やれやれ、どうするかな…。
そんなことを考えながら、キャンパス内に置かれたあちこちのベンチで談笑する学生たちの姿を見ながら研究室へ戻る。

こんな大学の日常。
なんだか愛おしくすら感じます。

当然、まだ教室での授業を怖いと思っている人もいるのかもしれませんが。

大規模大学は学食もたくさんあるものの、短い昼休みはどこもかなりの混雑ぶりです。
おしゃれでやや価格帯の高い店が比較的空いているよう。
おしゃれな学食は学生を呼び込むために作られているのだと思いますが、やはりちょっと高いと普段使いには適さないのでしょうか。

周辺にも、学生街らしくリーズナブルなランチが食べられる店や居酒屋が立ち並んでいます。
特にラーメン屋が多い。
よし、順番に全部行ってやろうではないか。
なにせ定年までここにいるつもりなので、時間はたっぷりある。
…いいですね、ずっとここにいてもいいのだ、という感覚。
今まではカウントダウン(任期切れ)を常に気にしていたので。
「しばらくしたら上位の国立大とか移りたいでしょ?」というようなことを友人に聞かれたりしますが、実はあまりそうは思ってません。研究もできそうだし(少なくとも私の分野では)

授業に関しても、カリキュラムが安定していることもあり、何なら10年、15年と続けられるような授業をじっくり作っていきたいものです。何なら自分の授業用に教科書を作ってみましょうか。
今までは、毎年「この授業は来年はやらないかもな」と思って講義をすることも多かったのに!
イレギュラー対応で授業準備は依然としてかなり通常とは違う手間がかかってますが、そんなしみじみありがたさを感じる後期の始まりでした。