なぜ、生徒/学生を贔屓したり、アンフェアな扱いをする教員が発生するのか(1)

bashikoism.com


とある元小学校教員のブログを目にしました。一度辞めて色々やってみて、また戻ってこようという若い方のようです。

偶然目にした記事だったのですが、非常に印象に残りました。この記事を読んで表題のテーマについて少し私見を述べてみたいと思います。

印象に残った部分だけを要約すると、このなるさわばしこさんは、ご本人曰く「自分は子供の頃不適応児童で、公教育になじめず、ずっとずっと苦しんでいた経験を胸に、自分のような環境の子どもに寄り添うため、先生になった」そうです。

ところが、教員2年目、

「先生という立場が生むポジションパワーに慄きました。学校という場所、子ども達にとって、先生は強大な権力者です。

私の一声でしんと静まり返り、私の意図を汲もうとし、私のことを無条件に信じる子どもたち……。

キモチよさを感じる自分が怖くなりました。

私はたった2年で染まりかけてしまっていました。」

これ、よくわかります。小学生と18歳以上の大人である大学生では少々事情は異なりますが、やはりこの「ポジションパワー」を勘違いして、傲慢になり、人としても教員としても残念なことになってしまう人は大学にもしばしば発生していると思います。

「まともに研究をしている大学教員」の場合は、多くが研究の場で壁にぶち当たったり、厳しい批評を浴びたり、天才的な人を見て自分の限界に凹んだりして、裸の王様になることへのブレーキが効いているかなと思いますが。

しかし、「ポジションパワーに気持ちよくなってしまって勘違いした残念な教員」という以外にも、教員が贔屓をしたりアンフェアな行動をとる要因が教育現場にはあるなと感じています。

私も子供の頃は、学校が大好きな所謂スクールカースト上位層だとか、先生と親しいポジションだとか、そういう位置からは程遠いところにいました。教室の隅で本を読んでいる地味なタイプです。まっとうにきちんと努力をしている筈なのに、なんだか要領の良いお調子者タイプが実際以上に評価されていたり、校則違反も叱られなかったりするのに、自分やその他、地味なタイプは些細なことで叱られたり、イマイチ評価されていない、全ての教員の場合ではありませんが、しばしばそんな風に感じていました。

私は教育者になろうと思って大学教員になったわけではありませんが、それでもなるさわばしこさんのように、かつての自分のような学生たちに対しても、アンフェアな教員には絶対になるまいと考えていました。

しかし、実際に教員になってみて気づき、驚いたことがありました。常勤職の教員として大学で働き始めて、「フェアな姿勢」は通常以上に大きな努力と(時間や手間という)コストがかかること、です。

それには2つのポイントがあります。

ひとつは、学内(あるいはクラス内)ミニ・インフルエンサー学生の扱いの難しさ。

もう一つは、多発する、許容されがちな不正へのフェアな態度を貫くコストの大きさ。

例えば10名程度のゼミならいうまでもなく、20-30名の授業などでも、目立つ学生の影響力は教員側から見ても非常に大きなものです。これを仮にミニ・インフルエンサー学生と呼びます。

 

長くなったので続きます。