合理的選択は悪なのか

「命に値段つけるのか」指摘、薬の値段意識調査を中止〔読売新聞〕|医療ニュース|Medical Tribune

こんな記事を読みました。

内容は、薬の値段が効果に見合っているかを明らかにするため、厚労省が延命期間と薬の値段の関係を調査していたが、「命に値段をつけるのか」という指摘が出たことなどから、調査は中止された、というもの。

 

「またこのパターンか」という印象です。

この問題は、次のようなケースが示唆する問題にもつながるでしょう。検索したものの再び見つけることができなかったので記憶頼みですが、少し前にはこんな記事も読みました。

高齢者(90歳ぐらいだったように記憶)に対し非常に高額な保険適用の治療が施され、治療は成功したが、2,3か月後に全く別の要因で自然死した」

 

「延命期間が短く値段が高ければ不要とするのか」「その対象者を見捨てるのか」という批判は感情的にはわからなくもないのですが、あくまで感情論だと思います。

「皆平等」「人の命は何よりも重い」は、もちろん正しく、現代社会で共有されるべき価値観です。

しかし、それはどこまで追及されるのでしょうか。究極的に?

だとすれば、1カ月の延命しか望めない治療だとか、20人に1人しか効果が出ない治療に数千万円が費やされ、90歳の高齢者を治療するために医療はパンクするかもしれません。

そこにある発想は、技術的に可能ならば究極的にやるべき、という感覚であり、「限りある資源(カネ、人材等)をどう合理的に振り分けるか」ではないでしょう。

なぜ、技術的に可能ならばとことんまでやるべきだしやれる、と思ってしまうのでしょうか。

現実にはリソースは有限なのです。

この問題に関しては全くの素人で知識も十分ではないため、あまり軽々なことは言いたくありませんが、こういった問題に触れるにつけ、丸山眞男の日本人論を思い出します。

日本人は宗教(神道)などの影響による伝統的な価値観として、無限抱擁性を持つのだと丸山は言います。それは、「行動の制約は自らの良心のうちに持たず、究極的価値により近いものの存在によって規定される」ということで、つまり「正論とはいえ、これ以上はその他の弊害や歪みが生じるため、ほどほどでないといけない」というような判断を自分で下さず(下せず)、究極価値(この場合は例えば、命の大切さ)への方向をひたすら向き、それに従う。

欧州では、高齢者の医療には若者や子供の医療とは異なる規定を設けている国もあると聞きます。それを高齢者切り捨てであると感情的に非難するのではなく、合理的なリソースの振り分けとして妥当であるのか否かを議論できる社会が必要ではないかと、私は思います。

 

 

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